02

 さぁさぁと霧のような雨が降っている。
 音ばかり優しげなそれはしかしじっとりと衣を湿らせ重くし、動きを鈍くする。体温がじわりじわり奪われていく。底意地の悪い。
 生い茂る木と相まって視界が一層利かない。後ろについているはずの仲間の気配を探る余裕ももう、なかった。正しくは恐ろしくて、出来ない。

「ぐッ!」

 軽く躓いただけなのに先から悲鳴を上げ続けていた足がもつれた。袴が重い。刀も。胃からせり上がってくるものを無理やり抑え込んで、―――抑えきれず、吐瀉した。

 (限界だ。もう、走れない。)

 雨。だがすえた臭いを流してくれるほどのものではない。ひり付く喉や口内を潤すことすら。木にすがって何とか立つが膝は完全に笑っている。

「もう、…もう、駄目だ」

 声にしてしまっては動かし難い真実となる。
 背後からとてつもない勢いで迫りくるもののことなど、最早わざわざ探らずとも分かっている。大きな霊圧。万全の状態であっても敵いはしない。
 己の負け。完敗だ。
 この足だけが唯一の望みだったが、立つのすら精いっぱいで。その力さえ敗北を認めてしまって抜け落ちていく。足掻くこともできずとうとう、崩れ落ちた。

「誰か…ッ」

 仲間などもう残っていないと分かっていながら助けを求めた声は、大きすぎる霊圧に文字通り押しつぶされた。

*

「はい到着〜。第一班追い込み係、只今戻りましたァ」

 朝から降り続く霧雨が地面にいくつも水溜りを作り歩き難いはずが、とん、とごく軽く檜佐木たちの目の前に降り立つ三席、。勿論雨や跳ねる泥を避けられてはいないが草臥れているのは死覇装のみ。本人はいたって余裕の風だった。

「おう……早かったな」
「他の者は」

 風に流される霧雨にほとんど意味を為さない簡易な天幕の下から副隊長二人がの来た方角を見遣るが、続いて現れる者はない。

「んもー、全っ然駄目ですお話になりません全員霊術院に戻ってやり直して来いって感じですねー」

 アハハと笑う顔には明らかな毒が浮かんでいる。額に手を当てた檜佐木が疲れたように息を吐いた。

「お前また全員…」
「来た」

 檜佐木の口から出かかった小言をが遮った。それからすぐ木々をかき分ける騒がしい音を立てながら死覇装の集団がどっと森から湧いて出てくる。全員とは比べ物にならない草臥れようだった。息も絶え絶えに倒れ込む者もいて、その屍ぶりにまた檜佐木が嘆息する。

三席!!」

 と、集団の最後尾から鋭い声が上がった。

「お疲れェ、保科君。その子どーしたの?」

 保科と呼ばれた男は第七席。まとう死覇装は同じく泥にもまみれているが、足取りは流石に危な気ない。背に一人背負ってもいる。背負われた方はぐんなりと塩をかけられた青菜のように、意識も失っているらしかったが。

「どーしたこーしたもないですよ!白目むいてぶっ倒れたんです!!直ぐ救護に連れて行かないと、」
「誰か。四番隊へ行ってくれ。二、三人来てもらった方が良い」

 保科の訴えにが指示を飛ばす。背後にいた席官の男がすぐ天幕を走り出た。倒れ込む集団に酷い怪我人はいないらしかったが、数が多い。確かに四番隊の手を借りた方が手っ取り早かろうが、申請外の要請、それもたかが新人訓練でとなれば後からの苦情は必至。三度目のため息も聞こえているであろうに、は欠片も意に介さず集団を見下ろしている。平均より小柄なの背丈で見下ろすという表現は正しくないかもしれないが、仁王立ちの姿勢と冷たい眼差しの圧迫感は落伍者にとって恐怖以外の何でもない。

…、お前ちょっと飛ばし過ぎだぞ」

 たかが新人訓練で。そう、厳しい入隊試験を何とか乗り越えてこの春入隊を果たしたばかりの者たちの、最初の訓練。
 内容はごく単純に言ってしまえば、つまり鬼事。森の中をおよそ決められた道筋で走り切る。後ろから追って来る者につかまらないように。鬼は席官だが、逃げる新人たちには勿論有利な条件が与えられている。まず最初にいくらか距離を稼ぐ時間。逃げる多数に対し鬼は一人、霊圧を消さないこと。追いつかれず開始地点、天幕の元まで戻れば良しというごく簡単な、新人たちにもそう分の悪い勝負ではない。事実先に走り終えた第二班、三班には数人の合格者も出ている。だが今走り終えた第一班は。運が悪いとしか言いようがなかった。鬼が第三席、であったが為に。

「全然そんなことないですよぅ「ありますッ!」

 の否定に、七席保科の更なる否定が被った。

「新人には無茶ですよ、あの速さはッ」

 鬼は一人だが、落伍者の確認等の為に他数名の席官が後から続く。第一班でその役目を割り当てられた数人のうち最も席次の高いのが保科だった。他の者も声にはしないが保科と同意見らしいのは誰の目にも明らかだった。

「なぁに言ってるのー。あんなんでぶっ倒れてる方が問題よー?」
「三席の追い立て方が物騒すぎるんですよっ、皆恐慌状態だったんですから…誰も最後まで走れないなんて訓練にならないじゃ、」
「ハイ駄目〜。保科君勘違い〜」
「はァ!?」
「訓練って分かってるのに混乱しちゃってどうするのー。本物の虚はもっと怖いんだよ速いんだよー。んでもって私みたいに優しくないんだよぉ」
「三、席のッッ、ど、こ、が!お優しいんですか!!」

 わざとらしいふざけた物言いに檜佐木はため息を、保科は怒りに拳を震わせ叫んだ。

「ちゃんと指示通り白旗あげてる奴にまで目一杯の霊圧で脅しかけて、一歩間違えれば大惨事ですよ!?こんな訓練で死人出してどうするんですか!!」

 漸う意識を持ち直してきたらしい屍、もとい新人たちが、保科の言葉に震えあがる。訓練でさえ死傷者が出ることは決してないことではない。ただこんな、新人が一番最初に受ける訓練で死人など、檜佐木たちも経験したことがない。

「実戦は、訓練じゃないよ?」

 しかし、すぅ、と場の温度を下げるの一言。緩い表情は変わらず、しかし目が笑うことをやめていた。否、最初から笑ってなどいない。鋭さが一層増した。

「そんなこと…ッ、しかし今はれっきとした訓練で」
「ハイまた駄目〜。保科君ももっかい霊術院戻った方が良いかもね?」
「な、」
「そこまでだ!二人とも」

 檜佐木副隊長、と間に入った長身を保科が悔しそうな目で見る。落ち着けと言うその背後にはいつの間にかの視線も注がれていた。

「少し落ち着け、保科。確かにの言う通りだ。訓練と甘えて足を止める奴は実戦でも同じことを繰り返す」
「…ッ」

 反論を封じられ、保科の視線が落ちた。

も言葉が過ぎる。それに、」
「はぁい、訓練は訓練。きまりを破れば私闘にすら成り下がる、でしょう?」
「…俺は何遍、それをお前に繰り返しゃ良いんだ?分かってンならそうしろよ、ん?お前にゃ学習能力ってもんがねーのか?脳味噌ツルツルなんか?」
「やっだな〜、学習してるから考えて動いてるんじゃないですか〜。もうこのやり取り飽きましたァ」
「奇遇だな俺もだぜ…ッ!」

 口角をひくつかせた檜佐木に、お前も乗ってどうするとの冷静なつっこみが入ってその場は何となく終わりになったが。その日の就業間際、報告のため訪れた執務室で再び顔を合わせた三、七席に檜佐木は頭を抱え、偶々席を外しているを恨んだ。後から姿を見せたに一瞬身を強張らせ、しかし殊勝にも保科は頭を下げて見せる。

「…昼は、申し訳ありませんでした」
「ぶすくれて言わないの。上っ面だけなら虚にだって真似出来るよ」

 のっけから飛び散る火花に最早ため息も尽きた。
 が、放置もできない。余所でやられても面倒だし。渋々お望み通りの役を買ってやることにした。

ー。いい加減にしとけよ」
「はいはーい、すいまっせぇん」
「上っ面で謝んじゃねェつったのてめェだろが」
「じゃあ謝るのやめまーす。ごめんね、保科君」
「…矛盾してると思いますが」
「違う違う。謝れなくてごめんねってこと。訓練のことについて撤回する気はありません」

 ぎら、と保科の目が鋭く光った。

「何故ですか」
「だって間違ってないもん」

 小首をかしげて見せるに内心でげぇと檜佐木は内心で舌を出す。似合わないからではない。見た目だけで言うならそんな仕草も問題にならない。問題は中身がそれに全くそぐわないこと。

「訓練と甘えていては、ですか…」
「分かってるなら聞かない」
「分かっています、頭では。しかし」
「頭じゃ駄目なんだってば。身体に叩き込まないとすぐ死んじゃうでしょ、新人は」

 静かな声が保科の目のぎらつきを沈め、檜佐木は密やかに肩を下ろす。本当に、の言ではないが飽きるほど繰り返されたやり取り。実戦を知らない新人への優しさは、優しく接することではない。

「新人はまず生き延びないと駄目。怖くても走れなくても逃げなきゃ。死んじゃったら次はないんだから」
「……はい」
「それに私、最初に言ったよ?実戦のつもりで真剣にって」
「お前の言い方に緊張感がなさすぎるんだよ。あと見た目」
「そこまで責任持てません。あと私の見た目がよろしいのも仕方ありませぇん」
「……、三席」

 うん?と再び向き合ったに、保科の頭がもう一度下がった。

「申し訳ありませんでした。自分の考えが甘かったようです」
「うんうん、理解できたんなら良し!次の訓練、よろしくね」

 退室する七席の背を見送る。
 理解は出来るだろうが、納得するには今少しかかろうな。そう思いながら。

「……わざわざいらん摩擦起こすなよ、上位席官が」
「他が弛んでるんです、必要悪と言うやつですよー」
「わざとらしいし、色々」
「わざとですもん、全部」
「マジでイラッとすんなー、お前は」
「それはどうもどうも」
「褒めてねぇっ」

 はンッと鼻で笑う顔は、本当に可愛らしいのに全く可愛くない。
 せめて容赦なくぶん殴れる男だった良かったものを。

2011/05/05







back   top  next