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 少し休もうと言って斬魄刀を下ろした。心地よい程の疲労が随分な時間の経過を教えている。井上の熱心さにはルキアも、時折様子を窺っていた浮竹も舌を巻くほどだった。

「疲れたろう」
「ううん…そんなことないよ」

 まだまだ足りない、と考えているだろうことが容易く分かる顔だった。それで良い。終わりなど到底見つかるものではない。―――その方が良い。

「朽木さんこそ…ずっと、ありがとう」

 困ったような表情。付き合わせて悪いなどと考えているなら大間違いだ。ルキアはきっぱりと否定を口にした。

「井上の修行は私の修行でもある。お互いに気負うところなどないはずだ」

 浮竹も、二人とも目に見えて力をつけていると褒めてくれた。ルキア自身もそう思っている。

「それに約束したろう。一緒に、と」

 ルキアの言葉に一瞬目を見開いて、それからすぐ、そうだねと井上は笑った。だがいつもの笑みではなかった。ほんのわずかな陰りをあとに残している。現世でいる仲間たちが心配なのだろうか。後で松本か恋次あたりに様子を聞こうとルキアは提案しようとしたが、先に井上が口を開いた。やはり少し重い声で朽木さん、と。

「大丈夫…?」

 今度はルキアが目を瞬かせる番だった。

「何がだ?」

 首を傾げたルキアにまた少し困った表情。その手が伸びて、ルキアの手をとった。先程わずかに傷つけて血が滲んでいる。井上の静かな声がいつもの言葉を唱え、ルキア自身自覚していなかった痛みと共に傷が消える。

「あ、ありがとう…」
「朽木さん」

 大丈夫とはこの傷のことだったのかと思いきや、礼を言ったルキアにずい、と井上が顔を寄せた。

「いのう、」
「何があったの?」

 即座に何もないと返せなかったのは、それが真実ではないから。ルキアの胸に蘇る痛みがあるから。
 だがそれは、井上に話すようなことでは。

「私で良ければ話、聞くから」

 先程までの名残でまだ熱い手がルキアの手を強く握った。

「だからそんな顔、しないで」

 そういう井上の方こそ泣きそうな顔だったが、指摘も反論も出来なかった。気づかれていたのかと驚くことすら。

「……私は、」

 栓を抜かれた桶の水のように落ちる言葉がある。

「分からなくて」

 握り返した手をまた強く返されて、かつてない心地になった。心強くもあり、その逆でもある。崩れ落ちそうな崖で身を寄せる木を見つけたが、その木に頼っても良いのか。だが迷う余裕など実はルキアにはなかった。ずっとそれを探していたのだから。

「私は、同情しているだけなのか…?あの人の、言うように」
「…あの人って、もしかしてさん?」

 今度こそ本当に驚いて顔を見やれば、井上はやっぱり、と苦笑を浮かべて言った。
 どうして、と呆然と口にしたルキアに井上は答えず、座ろっか、と促した。日に日に温度を下げる風が二人の髪を踊らせ去っていくが今この時ばかりは近づく戦いの事も忘れて、ルキアは再度問うた。

「どうして…」

 手はまだつながれたままだった。

「だって、朽木さん。一回も言わないから」

 さんのこと。

「ここに来てから一回も。他の、黒崎君とか恋次君のことは言うのに。浦原さんの名前は出してもさんの名前だけ言わないんだもん」

 気づいてなかったのかと言われて愕然とする。一心に修行に励み、来る決戦のことだけ考えてきたつもりだった。だがそれは、単に考えたくないことから目を反らしていたに過ぎないのだと、分かってしまって叫びたくなる。井上が握ってくれている手になんとか堪えたが。惨めだ、ルキアは思った。

「……言ったの?さんに」

 井上にとってはそう強い印象がある人物ではない。他の個性が強烈な所為もあるが。無口で、日番谷たちが集まっている時も問われれば答えるが、自ら何か言い出す所を見たことはない。その寡黙さが、少し怖いと思うことすらある。表情が隠れていて何を考えているかも分からないし。
 ただ、不思議と信頼はおけると思っている。尸魂界で夜一が頼って良いと言ったためかもしれないが、少なくとも日番谷や松本と同じく一緒に戦ってくれる人との認識に疑いは持っていない。

「分からない」

 ルキアの声は細く、心許なげに掠れている。いつもの凛として、まさしくその斬魄刀から生み出す氷のように透き通る強さはない。もっともここ最近のルキアは刀を振るっている時以外ずっとこんな調子だったが。

「分からないって…どういうこと?」
「分からないのだ、井上。私は、これが、何なのか」

 これ、とルキアは自身の胸元をつないでいるのとは逆の手で押さえた。

「お前と尸魂界へ来る前に殿と話をした。殿は何か…ずっと、悩んでおられるようで」

 言葉にするや、又も戦慄き始める身を必死に抑え込む。励ますように井上が握る手に力を込める。

「悩んでいる理由を教えていただきたかった。力に、なりたくて…お前や一護たちと同じように」

 浦原や夜一のようにとは言えなかった。だが通じているかもしれない。彼らが古くからの知己であることは既に井上も分かっている。

「教えて、もらえなかったの?」

 答えは沈黙で十分だった。なんとなく、井上にも想像がつく。冷たい人だとは思わないが、他人にも自分にも厳しい人なのかもしれない。誰かに心配されているということすら自分に許さないような。良く似た危うさを、かつて自分の兄に感じたことがある。沢山を自分が背負って、妹には絶対心配をさせまいとする人だった。

「……気の迷いだと、言われた」
「え?」
「言うな、と。私のこれは、同情にも近い錯覚で、そのことは直ぐに気がつくとも」

 何を、とは問うまでもなく分かった。

「っ、ひどい…!」

 気持ちを押し付けることは、良くない。
 けれど言わせも、聞きもしないなんて。それどころか錯覚とまで。
 井上は急激に頭へ血が昇っていくのを感じた。身を固く小さくするルキアがいつかの自分と重なる。

「浦原たち以外で殿の不調に気づいているのは恐らく私だけだ。知ったのは偶然だったが、上手く取り繕っておられる。それから…私は昔、死神になる前、殿に命を助けていただいたこともある」

 尸魂界でも、と続ける意味は井上にも分かった。つまりルキアはに対して恩を感じている。一護たちに感じるのとはまた別に。
 一旦言葉を切って、ルキアが顔を上げた。縋るような眼差しは、井上は見たこともない。

「私は、だから、殿の言われる通り、同情しているに過ぎないのだろうか」

 違う、と否定するより先に、井上は奥から突き上げてくる怒りを口走っていた。

「ひどい…さん、ひどいよ…」

 ルキアにこんな顔をさせて。こんなにも悩ませて。思いを告げることすら許さないなんて。

「…だが、確かに同情だったなら、言うべきではない。本当に酷いのは私の方だ」
「そんな、こと」

 先に決壊したのは井上の涙腺だった。ルキアが、泣きそうなのに泣かないから、一層辛くて。

「けれど」

 続ける声は聞き取れないほど震えているのに、どうしてこの人は泣かないのだろう。

「これは本当に、同情なのか?こんなにも、息が出来ないほど苦しくて。あの人が辛い思いを抱えているのかと思う度、血を流しているのを思う度、ここが………たまらない」
「朽、木さ」

 たまらないのは自分だと、井上はルキアの肩にしがみついた。ごづ、と鈍い音をたてて額辺りに痛みが走った。痛い。きっとルキアも痛いはずだ。痛いから涙が出るはずだ。だから、

「…泣いてよ、朽木さん…」

 くっと米神がひきつるのだけ、ルキアにも分かった。

2011/03/08







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