矢のようにも槍のようにも鋭い日差しが瀞霊廷の全て、隙間なく容赦なく差していた。それは十番隊の敷地においても何らの例外なく、日番谷冬獅郎のいる執務室も全く同じく熱気が立ち込めていた。戸と言う戸を全て開け放ち、それでも尚室内にはむぅと熱がこもる。本日分の書類仕事、その一枚にぱた、と透明な滴が落ちたところで溜め息をつきつつ冬獅郎は筆を置いた。暑過ぎて仕事にならない。高い湿度に紙はたわむし、汗が噴き出て何度も文字を読めなくしてしまった。いっそ己の能力で室内を氷漬けにしてやろうかと思ったが、この暑さでは氷もそう長くはもつまい。何より後始末がとんでもなく面倒なことになりそうなので止めておく。それぐらいの分別はこの煮えた頭でもつくらしい。が、兎に角一息入れようと冬獅郎は腰を上げた。このままでは本当に仕事にならない。
日蔭の廊下は風が良く通るからか、執務室より多少マシに思えた。もう少しこの湿度が下がれば良いのだろうが、天候に注文など詮ない。ふと息をつくと呼応するように心地良いそれが横から冬獅郎の髪を泳がせる。と、同時に運ばれてきた人の声。風上を見れば、中庭の生い茂る緑にいくつか笠を被った死覇装が埋もれるように点在している。草を刈っているのだった。少し考えてから、冬獅郎は日陰から一歩踏み出す。途端突き刺す熱に思わず立ちすくんだが、意を決して笠たちの元へ近づいて行く。
「あ、日番谷隊長っ」
いくらか近づいた所で笠の一つが気づき駆け寄ってきた。良く覚えのある明るい声に手を上げて応える。
「ご苦労だな、。大分綺麗になった」
梅雨を経てたっぷり水を含んだ土壌。そこへこの日差し。草木の伸びない方が不自然と言うもの。
どこぞの自称風流人と違い冬獅郎には庭やら家屋やらに矢鱈手を入れる趣味はないが、乱れているのは好ましくない。見通しも悪くなるし刈っておくように、と指示したのは今朝のことだった。
「休み休みやれよ、暑さにやられる」
「はい、それは勿論。というか隊長こそ、笠も被らず倒れてしまいます」
「俺は良いんだよ…すぐ戻るから」
言いながら自分の笠を取って被せようとするのに慌てて制す。そうですか、と気遣わしげな顔にこそ拭っても拭いきれない程の汗が浮かんでいた。
「でも、顔色が優れないように見えます」
「この暑さだからな…」
「ええ。ちゃんと水分補給なさって…あ、塩分も取られていますか?食欲も落ちるとは思いますけど冷たいものばかりでは…」
「………」
じとりと見返した冬獅郎に、しまったという顔でが口に手をやった。
「…すいません、つい」
声高に叱らなかったのは、首をすくめ笠で半分隠したの苦笑の、目の柔らかさやら桃色の頬やらにぎくりとしてしまったからだった。外からは何も分からないであろうに、冬獅郎自身だけが勝手に一人疾しいような心持になって目を反らしぶっきら棒に応える。
「お前ら、何時までヒトをガキ扱いする気でいやがんだ?」
「普段そんなつもりはないんですけど、この季節になると、どうしても…」
「あのなァ…」
護廷において氷雪系最強の斬魄刀の使い手である冬獅郎を、しかしそれ故気温の上がると同時に気遣ってしまうのは十番隊隊士全員の傾向ではあった。しかしこのが言うのには他とはまた微妙に背景の異なる、特別の理由がある。
と初めて会ったのは、冬獅郎が死神になる前だった。
まだ自分の内にある力にも気づいていなかった頃、今は五番隊副隊長の暇森桃も霊術院に通っていて、幾度目かの休暇の折、友達だと家に連れてきたのが最初だった。だから桃とは長さが違うけれど、一応幼馴染とも言える。
その幼馴染二人の前で不覚にも倒れたのはやはり今日のように暑い日だった。
霊術院の二人が長めの休暇で、何の用事だったかは忘れたが兎に角炎天下の町を三人で歩いていた。既に桃づてに暑さに弱いとはにも知られていて、だからか気遣う二人に必要以上に反発して平気な振りを装い、結果目を回したのだった。思い出す度自ら穴を掘って埋まりたい衝動に駆られるほどなのだが、最も忘れてほしい人物に限って明確に記憶され夏が巡ると何時も突きつけられる。コレは一体どういう仕打ちか。
「何年前の話だと思ってんだよ」
渋い顔をする冬獅郎と対照的に、笑っては答えた。
「本当に…随分懐かしい話ですよね。桃ちゃんとシロちゃんと、私の三人で」
誰にも聞こえぬよう潜められたの声が紡ぐ古い呼び名にまたぎくりと心臓が跳ねて、それを誤魔化そうと一層渋い顔を作った。
冬獅郎が霊術院に入るのと入れ替わりに卒業し護廷に入隊したたち。異例の速さでその背に追いつき追い抜かし、の上司となってから接する機会は格段に減った。勿論同じ隊の隊長と隊士であるから隊務上顔を合わせはするが、の席次はそう高くない。他の目がある場所であからさまに馴れ馴れしい態度をとるわけにはいかない。とる理由が、ない。
桃と同じくがそれを残念に思っているのは知っている。
だが冬獅郎は、が思うよりずっと遥かに残念で、焦れったく思っている。
あと半刻もやれば一段落つくでしょう、と状況を説明するの声は遠い。どうなればこの声をもっと近く、もっと沢山聞くことが出来るだろう。の席次が上がれば話は早いが、今のままでは難しい。それに根本的な解決にならない気がする。自分が聞きたいのは上司に対する仕事用の声などではなくて、昔のように親しげで、いや事によってはもう少し違う種類の―――
「―――…ぃ長、日番谷隊長ッ!!」
突然、鼓膜を震わせた件の声にびくりと肩を震わせた。取りとめない思考に埋もれてぼんやりしていたらしい。ああすまん、と詫びて、しかし視界いっぱいに飛び込んできたの顔にまたぎくぎくりとのけ反った。近い、近すぎる。いきなりどうした。しかも表情が何か切羽詰まった、普段おっとりしているには珍しくてまた激しい動揺に見舞われる。降り注ぐ夏の強い日差しがきらきらと、の髪の上に矢鱈まぶしく光った。
「大変ッ!!」
「は?何…っ」
光を受けたまま、青ざめたが叫んだ。何事かと問うより早く懐から取り出した懐紙を鼻先に押し付けられる。驚きと共に己のものとは全く異なる柔らかな香りに鼻腔をくすぐられ、くら、と頭の芯が痺れた。
が、すぐにそれは鉄臭い、非常に覚えのあるものに紛れて消える。懐紙を見やれば思った通り赤いものが滲んでいて、無意識に鋭い舌打ちが出る。
「こっち、日陰に行きましょう!あっ、押さえとかなきゃ駄目です!」
「おい、落ち着け…」
「どうしよう、どうするんだっけえーと、兎に角止めなきゃ!上向いて下さいッ行きますよ!!」
やはり凶悪な日差しの下、閃くの右手。
大丈夫、少し逆上せただけだから。
そんな声を発する前に、右手は刀の形と有るまじき勢いをもって冬獅郎の延髄へ叩きこまれた。目の前が大きくぶれる、意識は何か思う間もなく真っ逆さまに落ちた。
*
ちらちらと時折暗い中に光るものが煩わしく、手を上げてそれを遮ろうとした。その手が重い。だるい。身をよじって避けようとすると、
「………隊長?」
頭上から降ってきた声に目をうっすら開ける。どうやら地面に対し顔を横に寝かされているらしい。
また目元に光が瞬く。ぎゅっと強く目蓋を閉じ記憶を反芻した。ややあって意識を失う直前の光景が、徐々に蘇ってくる。
「………………」
「は、はい」
「………あ?」
中途半端な意識が呟いた名に返事が返って不審に思ったが、身を起こそうとして叶わなかった。目の奥がぐらぐらする。
「もう少し、横になっていて下さい」
更に続き、米神あたりに触れるものがあった。ひんやりと冷たい。まだ火照りを残す額にそれは心地良く馴染んでいく。そよと吹く風も優しく、冬獅郎を包む柔らかい感触に全身の力が緩むのが分かった。
また意識を落としそうになり、しかしその心地良さにこそ違和感を覚えた。冬獅郎を頬を押し返すそれは柔らかく、暖かかった。まるで人肌のように。
「……なッ―――!!?」
飛び起きた拍子、ひゃあと声をあげた者と肌を触れ合わせそうなほど近くで視線を交じえ、更なる熱が上った。
「な、なん…」
「隊長っ、駄目です急に起きあがっちゃ!」
の言葉通り、次に襲いかかったのは酷い目眩で、ぐらりと傾く身を保てず手を地につく。胃から気持ちの悪いものがこみ上げ、ぶわ、と毛穴から吹き出る脂汗。腹に力を込めて何とかやり過ごすが、たまらず俯いた。
「日番谷隊長、」
差し出された水筒を反射で煽り、まだ収まらない不快感の中、細い腕に抗うことすら思いつかず促されるまま再び横になる。他人の、の、柔らかい膝の上に。
一体全体どういう状況なんだと必死に考えるが、不快感に思考が定まらない。一層目が回る。喉から絞り出すような唸り声が思わず出ていた。
「あ、あの隊長…」
おずおずと、気遣わしげなの声が聞こえる。膝に冬獅郎の頭を乗せたまま、日差しを遮るように背を丸めて顔を覗き込んでいるのが気配から分かったがとても目を開けて応えられない。どころか、逃げ出したいほどだったが目眩に阻まれて叶わない。
「何だってんだ………」
我ながら実におどろおどろしい。頬の下がもぞりと動いて、申し訳ありません、と泣きそうな小声が降ってきた。その声に冬獅郎は漸う、起こった全てを理解する。
自分は暑さに逆上せて鼻血を出した。先日の戦いで粘膜が弱っていたのかもしれない。その様を目の当たりにし、取り乱したが処置に慌てた。慌てて、懐紙を自分にあてがい、それから、手刀を冬獅郎の首の後ろへ。
「………阿呆か………」
呆れた己を誰が咎められようか。
には勿論だが冬獅郎自身、馬鹿馬鹿しすぎて笑い話にもならない。暑さに逆上せたことも、手刀ごとき避けられなかったことも、―――こうしての膝に世話になっていることも。
またちかり、と閉じた目蓋の上を光が走った。すいませんと繰り返すの声を聞きながら目眩は漸く治まりつつある。が、今のこの状況にはまた別の熱が上がりそうで閉口せざるを得ない。
「あの…あの、大丈夫ですか?隊長…」
肯定し辛いが否定もしにくく、唸るに留めた。額に浮いているのだろう汗を拭う布は冷たい。すぐ傍らでぱしゃと水の音がした。
「もう血は止まったんですが、目が覚めてもあんまり気分が優れないなら救護詰所に行くようにって…行かれますか?」
喉の奥から絞り出すようにして否とだけ伝えた。確かにまだ不快は強いがおとなしくしていれば直治まるだろうとは予測がつくし何よりこの様を誰かに見られるのはとんでもなく御免だった。
御免だったのだが。
言葉尻のおかしさに視線を上げる。
「あ、仕事の方は心配なさらないで下さいって、仰っておられました」
視線の意味を、察したつもりで微妙に勘違いした答えをが返す。
「松本副隊長が」
目眩がぶり返した。
「ここの所立て込んでいたしこの際しっかりお休み下さい、とも」
その原因の約半分はお前にあるのだがとは胸中でだけ呟く。
「詰所よりここの方が良いだろうって副隊長のご判断なんですが……本当に、大丈夫ですか?」
あの野郎、とには見えない位置で冬獅郎は拳に力を込めた。松本の言葉をそのまま受け取ったは気づかなかっただろう。が、冬獅郎の目蓋の裏には副官の隠れたにやにや笑いが今やはっきり浮かんでいる。
黙り込んだのを何と理解したものか、お水飲みますか?とが心配そうな声で竹筒を示した。木陰の中には他にも水の張った桶やら団扇やら、小綺麗な茣蓙まであって今更ながら自分がその上に寝かされていることに気づく。
背中に新たな、じとりと嫌な汗が伝ったのが分かった。
変に固まった冬獅郎の視線の先を追って、あぁとが得心したように頷いた。
「一緒に草刈していたみんなが持ってきてくれたんですよ。運ぶのも手伝ってくれました」
不自然なことではない。ないのだが。
「草刈は代わるから、隊長のご気分が良くなるまでちゃんとお世話するようにって、みんなから怒られてしまいまして…」
―――全員グルか。
身悶えしたくてしかし出来ない冬獅郎の心中など、恐らくは知るまい。一際大きな、冬眠中の熊の鼾のような唸り声が出た。頬の下、の柔らかな膝が酷く慌てて波打つ。
「た、隊長っ?やっぱりご気分が?」
どうしよう、どうしよう、と慌てる様がいっそ憎らしい。お前こそ諸悪、ではないが根元であるのにその壊滅的な鈍さは。
「、てめェ…………」
「は、はいっ」
「………晩飯、付き合え」
およそ凶悪な声色に似合わずささやかな要求に、しばし静寂が流れた。
ざざ、と遠くで木々が風に揺れる音が聞こえる。突き刺さるようなの視線を頬に感じて耳が熱くなっていく。沈黙が痛い。いたたまれなさにまた逆上せてしまいそうで、口が滑った、冗談だと冬獅郎が言い掛けた時、はい、とか細いながら確かに喜色のこもった声が冬獅郎の耳を打った。
「美味しい鰻屋さん、ご紹介しますね」
そこでほとんど初めて、横になったままちらと伺った頭上には、良く見慣れた笑顔があった。
「………おぅ」
「鱧でも良いかも。どっちが良いですか?」
「お前の好きな方にしろ」
「それじゃお詫びの意味がありません。あ、ちゃんとお代は私に持たせて下さいよ!」
「馬鹿、当たり前だ」
どうかなぁ、シロちゃんってばいっつも知らないうちに済ませちゃうから、と一気に砕けた幼馴染みの口調がふくふくと胸を暖かにした。不服、ではあるが、今はまだこれで良いかと冬獅郎は少し無理にも己を納得させる。敵はなかなかどうして、一筋縄とはいかない。
「一緒にご飯なんて、随分久しぶりだよね」
「あぁ、」
「入隊したばっかりの時はしょっちゅうだったけど。他にも桃ちゃんとか吉良君とかもさ」
「だったな」
一筋縄にはいかないけれど、今はこれで。この楽しそうな声だけで。
「あ!今夜、誘ってみる?阿散井君も!」
「…―――」
目眩、再び。
この鈍さにあと何度泣かされれば大願成就なるか。
畜生、と口の内側だけのぼやきは幸か不幸かの耳に届くことなくただ冬獅郎の腹を重くするのみ。恨めし気に見上げた先の笑顔は陰り一つなく、夏の日陰の中に春の日差しの如く柔らかなままあった。
耐え難い虚脱感に見舞われながら、冬獅郎は再び目を閉じる。眉間にしわの寄っている自覚はあって、がそれを訝しげに伺っているのも分かっていたが、無視した。やがてゆるゆるとやってくる睡魔に身を委ねる、せめてそれぐらい許されよう。と、冬獅郎は気の毒な自分を慰めた。
鈍感、無自覚。膝も手も優しく頬を撫でるのに。
―――これが憎さ余って、というやつか。
あまやかな眠りに落ちる寸前、訂正の声は挙がるはずもなかった。
2011/07/29
|