本当に、これ程まで苛立つことが過去にあったろうか。いやない。
 少し前から苛々と、最近はとみに酷い。何をしていても、常に消化不良でも起こしたかのように腹のあたりがムカムカして気分が悪い。時に隊務に支障をきたすほどで、鬱憤晴らしと道場に籠もる時間が増えた。何十年とかけて硬くなった掌に新たな肉刺が出来るほど木刀を振り、それでもすっきりしない。太刀筋にもそれが表れるのか、道場でも虚相手の戦闘でもつまらない傷を作ってしまう始末。自分でも剣先がぶれているのが分かる。一角や部下たちにも呆れられ、時に気遣いまでされて、また苛立たしい。こんな不安定さは美しくない。この十一番隊第五席、綾瀬川弓親に許されるものではない。即刻解消されるべきことだが、問題は原因が弓親自身にはないことだった。

*

 がっちゃん、とか。ドサドサ、とか。
 耳障りな音が聞こえた。既に十二分に腹の中を沸々させながら振り返った先、廊下の曲がり角に隊士たちが数人。その足元に散らばる大量の紙類。書類を運んでいた者が途中、不注意にも曲がり角でぶつかってぶちまけたのだろう。想像するは容易だった。
 一人の隊士が慌てて膝をつき散らばったものを集め始める。他の者はそれを手伝うどころか、むしろ悪し様に跪いた者を罵りさっさとその場を後にする。
 当人たちと自分と。それ以外の者の姿はなかった。

 ―――美しくないものを見た。

 振り返るんじゃなかったと悔いたが既に遅い。弓親自身も舌打ち一つして立ち去ろうとしたが。乱雑に紙を集める音がいつまでたっても止まない。胸中の苛立ちが比例するように増していく。
 バサバサ。
 イライラ。
 バサバサッ、バサバサ。
 何やってんだ。苛立ちか嘆かわしさか、頭を抱え込もうとした時、風がごぅっ、と唸った。紙のこすれ合う音が一際大きくなって、悲壮な声があがった。十一番隊には多くない女性隊士の声が。
 空へ高く舞い上がる白い紙が視界の片隅を掠めた気がしたが、今度こそ振り返らず庭に面した廊下を突き進んだ。
 嗚呼、苛々する。
 苛々する。
 あの粗忽者。
 、が視界に映る度忌々しくてならない。いつだって何かしら失敗をしでかして、どうしてそれを自分は悉く目撃してしまうのか。いや、悉くという表現は恐らく正確ではない。きっと自分の目が届かないところではもっと馬鹿をしているに違いない。少し気をつければ起きないようなことばかり、馬鹿馬鹿しすぎる。
 話していてもあの間延びして要領を得ない受け答えがまた神経を逆撫でする。分かっているのかと問えば是と応えるが、言葉だけ、だ。結果が伴わなければ分かっていることにならない。
 一番腹立たしいのはきちんと話をしないこと。どうにも伝達能力に欠陥があるらしい。物事の十うち半分も説明出来ないとは、舌足らずにも程がある。

「……で、風に飛ばされたこれらを集めていて報告がこんな時間になった、と」

 目の前、ぶ厚い字引二冊分程にもなる紙束を示せば居心地悪そうに項垂れたの頭が、申し訳ありませんと一言。腰紐の辺りでもぞもぞ動く、これだけは十一番隊らしく無骨な手が何か言葉を探しているようにも見えるが、音にならないそれが耳に届くはずもない。
 また米神を刺すような苛立ちを何とか堪えながら、紙束をいくらか手に取りペラペラと捲る。中身を読むでもなくただ流れる紙を眺め、おもむろに一枚を、キョトンとした間抜け面の前に突きつけて見せた。

「これ」
「は、」
「滲んで読めないけど」

 指摘に、始終寝惚けていたような目が一瞬見開かれて、それからすぐへにゃりと歪んだ。

「も、申し訳、」
「何で滲んでいるの」

 無意味な謝罪を聞くから更に苛立ちが増す。それなら聞くより先に遮ればいい。

「え…と。その、水を?濡らして…?しまったようで」
「酒臭いね。呑みながら書いてた?」
「お、お酒?」
「でも君、酒はからっきしだ。呑む筈がない。全くの下戸がどうして酒臭い書類を持って来る?」

 矢継ぎ早の言葉に残念な処理能力のお頭はすっかりお手上げ状態らしい。完全に機能停止。ただの、機能停止、だ。失態を取り繕うとして黙りこんでいるのではない。そんな考えを思いつきすらしないだろう、この間抜けさが、どうしようもなく。

 ―――苛々する。

 腹立ち任せ、机を叩いた。何枚かの書類が宙を舞う。一呼吸遅れてがぎゅっと目をつむった。

「馬…ッ鹿じゃないのか?いや馬鹿だろう、お前、馬鹿なんだってそうに違いないよ!」

 酒は廊下でぶつかった奴が酒瓶落としてぶちまけたんだろうがトロいくせに一人でもたもた集めるから風になんて飛ばされるんだ何で手伝わせないんだというかそもそもこの仕事君一人じゃないだろうに報告が一人きりって許されるとでも思ってるのか馬鹿正直に押しつけられてんじゃないよ!!
 嗚呼、苛々する!
 ひと息にぶちまけたけれど、まだ苛々する。目の前の馬鹿がちっとも理解していないからだ。

「………あのぅ」
「何だよ!」
「見てきたみたい、ですが」
「見てたんだよ馬鹿野郎!!」
「え…っ、もしかして、全部…」
「ああ不幸にも全部だとも、その前の怪我もその前の前の迷子も!」
「ど、どうしてですか?」
「―――こっちが聞きたいよ!!」

 もう良いから消えてくれ、目の前から!
 これ以上は我慢ならぬと出口を指差す。指差すだけでは止まらず、やっぱり動作の鈍い肩をぐいぐい倒さんばかりに押しやった。ええとあの、と何かぐちゃぐちゃ言い掛けるのも、珍しく踏鞴を踏んで抵抗するのも、全部無視して部屋の外に放り出し戸を閉め切ろうとしたのだが。

「ま、待って下さいっ」

 戦闘以外でこんなに機敏に動けたのかと驚く程の素早さで閉まりかけた戸に飛びつく、馬鹿。

「手ェ挟むよ」
「あ痛ァ!」

 忠告してやっただけ有り難く思え。この綾瀬川弓親の優しさにむせび泣くが良い。ぴっしゃんと派手な音を立てて戸が閉まる。

「あ、ありがとうございますっ」

 …聞き間違いだろうか。
 聞き間違い、だろう。
 いやしかしこの十一番隊第五席の地位にあって容姿能力共に隊長格にも劣らぬ美しさを完璧に備えた綾瀬川弓親が聞き間違いなどあろうか。
 戸板一枚隔てた向こう、慎みのない明け透けな気配はまだそこにある。

「………美しくないにも程があるよ」

 ほんの二、三寸隙間を開けた戸の下でうずくまっていた固まりが、声に驚いてこちらを見上げた。挟んで赤くなった指先に息を吹きかけながら、薄く青い膜を張った目で。

「あ、」
「さっき何て言った?」
「は、ぇ。さっきとは…」
「だからさっきだよ。どっかの馬鹿が指挟んだ後、戸が閉まる前!質問にはさっさと答える!」
「はぃぃっ」

 怒声に、背中へ物差しでも突っ込まれたようにしゃっきり直立する。そして腰から上、上半身が勢い良く折れた。

「ありがとうございますっ」

 の旋毛が視線の先にあった。

「………なんで?」
「えっ?」

 疑問の言葉をそこに落とせばいつものとぼけた顔が上がった。先程の名残で、目にはまだうっすら水が滲んでいる。

「なんで、お礼?」
「えっ、それは…有り難いことです、ので?」
「さんざ言われて指まで挟んで、なんで有り難いことなわけ、あとなんで疑問形なわけ」
「ええ、と、その、つまり…部下、ですので?」
「は?」

 間抜け顔の間抜けた目がへにゃりと曲がるのはいつものこと。なんだけれど。

「そんな所まで、ちゃんと、目を配って下さってるんだなぁ、と思いまして」
「………」
「綾瀬川五席が上役で、有り難いなぁ、と」

 自分、恵まれてるなぁと思ったら。

「あ、それからあの、馬鹿なのは性分って言うか、その、言われて当然だと自分も思っているのでして…」
「………」
「話し方がぼんやりなのも、多分似たような感じで…や!でも、気をつけているんですが…その、自分なりには」
「………」
「ええと、兎に角、ありがとうございます」

 再度頭を深く下げる。いつになく熱心に多く喋ったからか、使わない頭をむりくり稼働させたからか、頬にはほんのり朱が掃かれていた。

「それから今後とも、ご指導の程、よろしくお願い致しますっ」

 やだよ、面倒臭い。どうしてこの僕が。
 常ならばそれくらいすぐ返していたろうに、立ち去るの背を何一つ言うことなく見送っていた。後ろ手に戸を閉めれば、室内には自分一人きり。誰かの声が遠くから微かに聞こえるぐらい。机上に積まれた書類の山と床に散らばった幾枚か。
 嗚呼、滲んで読めない書類に再提出を命じなければいけない。報告も結局全部聞いていない。
 頭が勝手に処理すべきことを挙げる。しかし身体は、背中は、ずるずると戸を滑っていく。腰が床へ落ちた。

「……なんだそれ」

 苛立ちは一時止んで、いや、あまりの苛立ちに感情が突き抜けてその果て、酷い虚脱感。頭を抱える。

「なんだよ、それは」

 虚脱の、それからあと、じわじわ湧き上がる別の何か。
 熱い。異様に、熱い。
 弾かれるように窓へ向かい開け放つ。それでも尚熱い。今日は異常気象らしい。違いない。

「よー、弓親ァ」

 閉めたばかりの戸が引かれて、呑気な坊主頭が顔を出した。

「腹減らねーか?何か食いに行こうぜ」
「………行かない。一人で行けば」
「ハァ?何でだよ、まだ昼食ってねぇんだろ?」

 窓枠に手をついたままだったところへひょいと顔を覗き込まれて、思わず体が強張ったのが分かる。驚いて瞠目するが、それは覗き込んだ一角も同じだった。

「お前、どした?顔真っ赤だぞ」

 今度は耳まで熱で痛くなる。

「別に、何も」
「何もってことねーだろ。熱でも出したかよ?」
「何でもないって」
「ンなわけ……また、アイツか?」
「は?アイツ?」
だよ、

 さっき何かすげー声聞こえたし。近くですれ違ったし。

「お前最近アイツにかかりっきりだし」

 溜め息混じり、呆れ声はしょうがない奴と雄弁だったろうが。目眩すら覚え始めた程の熱に普段の冷静な思考は奪われていた。

「まぁアイツが何かやらかしてお前が怒鳴る、っていつもの通りなんだろうけどよー」
「ば……ッッ、」
「あン?」

 馬鹿野郎、と空気をつんざく怒号。
 ビリビリ震えた窓の外、鳥が木から飛び立った。さしもの三席もたまらず耳を塞ぎうずくまる。

「関ッ係ないだろあるわけないだろあんな鳥頭の粗忽者の間抜け女!なんだってこの僕が!全然!ワケ分かんないよ!!」
「わ、ワケ分からんのはテメーだッ何だってんだ急に!」
「五月蝿い出てけ馬鹿野郎!」
「言われんでも出てくわ!」

 頭冷やせの捨て台詞と共に一角が閉め出された戸の向こう、室内。一人意味不明に喚く声は夕方近くまで止まなかった。

2011/07/15







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