きおくを おくる ひ
行こう、と誘ったのは自分である。気温、湿度共に丁度良い頃合いだから、と。
結果は予想通り、期待以上だった。誘った相手の喜びようもまた同じく。だから良かった。
「綺麗、ですねェ」
細い川の畔、舞う蛍。
喜んでもらえて良かった。
「とっときの場所だからな。誰にもバラすんじゃねーぞ」
「勿論」
灯りもない夜の闇にふわり、ふぅわり、漂う小指の爪ほどの大きさの光が、微笑み頷くの頬の横をかすめて飛んでいく。追った視線の先、高く舞い上がったそれは闇には溶けず、星に連なる。目の前も、後ろも。上も下も、埋め尽くす光の奔流。天地の境界を失くしてしまうその中で、は、
「まるであの世みたいですねェ」
…別に今更こいつに情緒なんてモンは求めちゃいないと自分に言いきかせる。冗談のセンスが今ひとつ理解に苦しむのも相変わらずのことだし。
「人魂の一つや二つ紛れてても分からないと思いません?」
「………お前な」
「冗談ですよぅ、冗談〜」
声が本当に楽しそうであるから、許す。川縁を歩く小柄な背が心からこの風景を楽しんでいる。
ふと思いつき、まるで小さな子供のように宙へ向かって腕を伸ばす。儚げな光はいとも簡単に手の内へ収まった。星を掴んだような心地になる。
「星を捕まえたみたいですね」
いつから見ていたのか。
心中を見透かされたようで、少し照れ臭くなってすぐ掌を開いた。と、蛍はまた光ながら闇夜に浮かび上がり、ちょうど良い位置だったのかの髪につかまり止まる。
「おー、髪飾り」
「…似合うでしょう」
「ハイハイ」
いつも通りお馴染みのやり取りをして、淡い光の髪飾りをつけたまま、また歩く。水の流れる音だけが聞こえていた。人影はない。
「蛍見物なんて、随分久しぶりです」
「長く飛んでるもんでもないしな」
ちらほら姿を認め始めてから盛りまではあっという間。蛍の命は正しく一瞬で光って終わる。
昼の陽にかまけていればすぐさま姿を眩ます、儚い光。檜佐木自身ここ数年は見逃すどころか思い出しすらしなかった事もある。
「小さい頃は毎年見に行ってましたけどねぇ。孫平さんに虫かご作ってもらって」
ほろり、その名は何事ということもなく、自然なまま出た。思わず身構えてしまった檜佐木とは違い、前を歩くに何ら気負う様子はない。
「虫かご一杯に捕まえて部屋に持ち込んでぱぁーって放すの、副隊長はしませんでした?」
「した、かもなァ」
「朝には絶対怒られるって分かってるんですけどねェ」
少し前から時折、詳細を知る檜佐木と二人、他に誰もいない時に限られるが、こうして自身の口からぽつぽつ語られるようになった過去。の中で、長年のわだかまりが解消されつつあるならそれは良いことに違いない。
語る声にはただ、懐かしさだけ。
澱みはない。かつてのような、突き放した無感情さもない。
「でもお前、虫嫌いじゃねぇか。ちらっと油虫出てきただけでギャーギャー騒ぐくせに」
「油虫は嫌いなんですよッ、気持ち悪い!」
「同じ虫だろ」
「油虫と蛍を一緒にしないで下さい!もー、本当に檜佐木副隊長ってば情緒を解しないんですから」
「お前にだけは言われたくねぇッ、…今度出ても絶対始末してやんね」
「油虫が出る原因、どなた様かの始末の悪い食べ残しなんですが?」
「すいまっせん」
良いことに違いないと、本心から思っている。己の存在がその手助けになるなら、とも。
檜佐木にしか話さないのは事情を詳しく知るのが他にいないから。致し方ないことだし、又、己に対する信頼の証でもある。
と、取って良いのだろう。
「―――ああ、」
思い出しました、と唐突に立ち止まり、高い位置にある檜佐木の顔を肩越しに見上げる。いまだ髪に止まる蛍のおかげで闇にも明らかな目元は柔らかい。
「何を?」
「虫取り。あの人の唯一の取り柄だったなぁ、と」
「………へェ」
「私と妹、二人分合わせても適わなかったくらいで」
屈託なく、だが未だあの人、とばかり呼ぶのは無意識ながらの配慮なのか。それとも別の、何かか。
「甲虫でも蝉でも、何でも上手いこと捕まえてましたよ」
言わないけれど、正直重いなと思うことが偶にある。何がと問われても上手く言葉に出来ない。だから言わない。それに、一度でもそれらしいことを口にすればは二度と自分に過去を語らなくなるだろう。
聞きたくないのではない。良いことだと思う気持ちに偽りはない。ないのに、偶さか重い。
重くて。素直に聞けない、気が。
「…鳥なら俺も良く捕ったけどな」
の目が瞬いて、合わせたように蛍が明滅しながら高く舞い上がる。
「鳥って?」
「だから鳥だよ、鶉とか雀とか小さいの。長い棒の先にトリモチつけて、こう…シュッと」
「へー、面白そうですねェ」
「ああ、美味いぞ。特に鶉」
言ったが途端、の目がすぅと細く虚ろになる。
「あ?なんだよ?」
「…いーえ別に、何でもないですよぅ。色々と今更ですし」
「おいコラ」
「ああ、あっち凄いですよ。行ってみましょう」
強引に話を切り上げて一際光の強い方向へと、小走りで向かうの後を、溜め息混じりに追う。
「そこら辺、足元気をつけろよ」
「誰に言ってんで……」
「…?」
いきなり途切れた声に、訝しげに問うが返事はない。滑ったか何か妙なものでも踏んだか。
追いついた小柄な背に触れようと、その伸ばした腕をぐいっと引っ張られた。何事かと声にするより早く静かに、と目配せ。指がとある方向を示す。
息を呑んだ。
火柱。
蛍の、火柱だった。
ふらりと、正しく火に吸い寄せられる夏の虫よろしく、二人揃って火柱へと静かに近づく。
周囲の蛍全てがただ一点に集い、塊となって舞う。先程とは比べものにならない明るさ。揺らめきながら照る光に前後左右、天地、現と夢の境界までも朧になっていく。いっそ恐ろしい程の夢景色。
いつの間にか掴んでいた自分以外の熱をぐっと強く握った。応える力がなければ、目を回していたかもしれない。
蛍の狂乱。見る者も引き込む熱を、確かに感じた。
そして終わった後も全身を硬直させ身動き一つ取らせなかった。檜佐木もも、二人とも。足が地に縫いつけられたように動かない。
「…凄、かったな…」
一言、やっと発した声は自分で驚くほど掠れていた。に至っては頷くだけ。
蛍の火柱は、燃え尽きる時は一瞬だった。圧倒的な光の塊は、何の拍子でか燃え尽き、二度と戻らなかった。やっと戻って来た闇はより濃くなった気がする。
どれほどの時間が経ったのか分からないが、もうこれ以上は見ていられない。無言で引いた手に抵抗はなかった。
「凄かった、です」
薄ぼんやりと人工の灯りが見える所まできて、漸くが口を開く。まだ半分夢でも見ているような口調だったが。
「私、初めてです。あんなの今まで見たことない」
自分もだと意味を込めて頷く。長い間生きてきて、初めて見た蛍の火柱。
「ありがとうございます、檜佐木副隊長」
ちらとだけ振り返った先で頬を紅潮させたの笑みと目が合い、慌てて前に向き直る。こう素直に出られると、どうにもむず痒い。偶然だろ、と応えた声は必要以上にぶっきらぼうに響いた。
「ええ、偶然です。偶然、檜佐木副隊長が今夜のあの時間あの場所に誘って下さったお陰です」
だから、ありがとうございます。
つなぐ手の熱が、檜佐木にも伝染していく。否、そもそも熱いのはどちらだったか。思い返してもそれは曖昧だった。そして些事だった。
ただ、存外強い手の力に負けぬよう、それ以上の力で握り返す。
「忘れません、これ」
「そっか」
「忘れられません」
「…俺もだ」
初夏の夜の、新しい記憶。
まだ冷たい空気、小川の音、蛍の火柱、手の中の熱。
時は今。そしてこれから。
2011/06/12
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