何かの拍子で、ふっと集中していた眼前が揺らいだ。何度か瞬きを繰り返してみる。と、米神辺りに広がる重たい感覚。肩を回してみればゴリゴリバキリと。
 どうやら自分は疲れているらしい、と思い至った阿近はため息をこぼしながら椅子から腰をあげた。
 外は既に真っ暗で、一体いつから作業に没頭していたかと思いを巡らせたが作業に取り掛かる前が昼だったか夜だったかも思い出せないので考えるのを止める。何もないのに集中力が途切れたということは自覚している以上に疲れが溜まっているのかもしれない。ひと眠りした方が良いかとも思ったが、今のこの作業はもう少し進めておきたい。懐に煙草のあるのを探って確かめ、阿近は仮眠室から灰皿のある部屋へと進路を変えた。きちんと灰皿の前で、などと行儀の良いことはせず歩きながら咥えた煙草に火をつける。吸い込んだ紫煙が五臓六腑に染み渡るのを感じた時、暗い部屋に灯る一つの明かりに気がついた。

「………おい」

 阿近に向けられた背は、呼びかけに反応しない。だが無視している訳ではないだろう。恐らく気づいていない、聞こえてもいない。この、何やら一心不乱に筆を走らせている女は。
 面倒だと放っておいても全くこれっぽっちも構わないのだが―――いや、やはり構う。確か明日出る調査隊の一人に組み込まれていた筈。夜更かしを見逃して倒れられたり怪我をされては今以上に面倒くさいことになる。下手をすればあの無駄に暑苦しい、恋仲という名の保護者が出張ってきかねない。
 何とも容易く想像できる面倒くささに眉間のしわを一層深くし、阿近は大きく息を吐いた。その背に向けて、思い切り。

「んっ…!?げ、ぇっほ!!」

 突然自分を包んだ紫煙に盛大にむせかえりながら、何事かと振り向く

「あ、阿近さっ!?いきなり、何す…ッ」
「ゲホゲホうるせェよ」
「誰の所為っ…です、か!」

 目に涙を浮かべ非難の声をあげるの額をぺんっと叩き、もう一度うるせェ、と阿近は言った。

「夜中だぞ、騒ぐな」

 指摘されて辺りを見渡し、初めて気づいたという顔をしては咳きこむ口に手を当てた。真実、今気づいたのだろう。困った奴だと自分のことは完全に棚へ上げて呆れた目で見下ろしてやる。

「お前、明日外出るんだろう。何やってんだ」
「あ、いやちょっと」
「…どうせまたしょうもないモンだろ」

 ちらと窺った机の上には、こちらでは珍しいつるりとした装丁の本。現世の本に面白いものが多いのは認める。が、この女が面白いと思うモノを他の者が同じく興味を示すかと言えばそれは大いに疑問が残る。いつだったか実に際どい恰好をした若い女の写真集をしげしげと眺めていたのを思い出して、何とも言えないしょっぱいものが阿近の胸中に広がった。その現場に出くわしてしまった件の恋仲の反応は見物だったが。

「そっ、そーです、しょうもないですスイマセン!ああもう寝ますから、これでッ」

 が、のこの反応こそ阿近の興味を引いた。先の写真集さえ誰に隠すことなく堂々と広げていたのに、この慌てよう。元々嘘をつくのが下手なのだ、こいつは。
 ばたばたと乱雑にまとめ出す後ろから、ひょいと、あまり重くないそれをかすめ取ってやった。

「あ゛ッ!!」

 あからさま過ぎる「まずい」の表情。その手が伸びるより先に表紙に印刷された文字を目で追う。

『これで勝ち取れ快適な職場環境!〜嫌な上司を撃退する50の方法〜』

 わずかな沈黙。
 ぽいとその本を投げ出しスタスタ立ち去る阿近の腰にがしがみついた。

「違います誤解です単なる探究心現世の研究ああああたしが買ったんじゃねーし!!」
「あっそう」
「マジで本当ですってたまにこの鬼畜マッドとかは思っても嫌な上司とかは全然」
「分かったから離れろ墓穴女」
「誰がッ!?誰が墓穴、」
「うるせ―ぞ馬鹿共!」
「今何時だと思ってんだコラァ」
「仲がよろしいのは結構ですが外でお願いします…」
「良くねェよなァ、。俺ァ鬼畜マッドらしいし」
「違いますって、いやそこは違わないんですけど、兎に角違うぅぅぅ」

 明らかに寝不足のくせ嫌にやたら強い力でしがみつかれて引きはがせず、夜中の珍騒動は結局十二番隊隊舎の全員を巻き込み空が白むまで続いたのだった。

2011/05/04







top