花冷えに熱
日に日に、一日が長くなる。
空気に春の匂いとでも言おうか、冬の間にはなかったものが確かに含まれるようになった。とりどりの花が咲いて目を楽しませてくれるし、随分と過ごしやすい。だがやはり日が落ちた後は肌寒く、腕をさすりながら歩を速めた。
「失礼します。十三番隊、朽木ルキアです」
中からの許可を受けて入った九番隊執務室は、勿論暖をとるようなものは何もないが、外よりは温かく思えた。この季節、閉鎖空間に二人もいれば十分なのかもしれない。
「十三番隊よりお持ちしました。確認をお願いします」
「おう、ご苦労さん」
差し出した書類を受けた取った檜佐木がそれをちらと斜め読みに流して、後はこっちで回しておく、と答えた。元々大したものではないから処理はそれで問題ない。よろしくお願いしますと頭を下げて事は足りる。
「んじゃ俺ァこれで上がるけど。そっちまだ終わんねぇのか?」
そもそも入室した時から帰り支度をしていた檜佐木が相方、に尋ねた。机上から薄墨色の頭がこちらへ上がる。
「あと少しで終わる」
「そうか。朽木もこれで終わりなんだろ、確認も済んだしもう帰って良いぞ?」
「あ、はい。え、と」
裏に何の意図もないであろう、気遣いの言葉に視線が泳ぐ。それが咄嗟にの方へ行ってしまった。ほんの一瞬であったのに、流石に副隊長とでも言うべきか檜佐木という人だからこそと言うべきか、大体のことを理解してしまったらしい。
「…あー…そっかそっか。悪ィなー、野暮なこと言っちまって」
だがそこで流してくれないのは、それこそ檜佐木の性格ゆえかとの関係性ゆえか。にやりと愉快そうな笑みに血が上っていくのが分かる。慣れていないのだ自分は、こういうことに。
「そんじゃーお疲れさん。あぁ、明日寝坊すんなよ、二人とも」
「ひっ、檜佐木副隊長!!」
ワハハハ、と残された笑い声に頭を抱えたくなった。
「……すまんルキア。座って待っていてくれ」
軽い嘆息と共に、机に向かったままのが長椅子を示す。
「あ、ああ…。後、どれぐらいだ?」
「四半刻ほど」
「わかった。別に急がなくて良いからな」
隊長格の仕事の多さなど、今更誰に聞かずとも分かっている。自分とて暇ではないし、こうして帰路を同じく出来ることすら稀、そう言えばまともに話をしたのは何日ぶりだったか。
(疲れた、な…)
遠方巡回だとかお偉方の護衛だとか、危険度はさして高くないがやたら肩ばかり凝る務めが多いここ数日だった。腰を下ろした途端、意識していなかった疲労がじわりと浮かび上がってくる。瞼が重力に負けそうになる。
四半刻などすぐだ。急がなくて良いと言ったものの、きっとはそれ以下の時間で残りを終わらせてしまう。別に買被りでも自惚れでもない。ここで意識を落として自分以上に疲れているだろう相手にいらぬ手間をかけさせては、と机の向こうのを横目に思う。しかし柔らかい椅子の背に意識は抗えず、ずぶずぶと呑まれていくのだった。
*
他者の匂いに鼻先をくすぐられたような気がして目が覚めた。身じろぐと、上から声が降ってきた。
「起きたか」
静かで、幾分抑えられたそれは耳に心地よい。ゆるゆると綻んでいく夢と現の境界に身を起こして目をこする。と、その腕が別の手に取られた。
「ん…?」
唇に柔らかい感触が落ちて、すぐ離れた。視界いっぱいにあるの顔に眠気が吹き飛ぶ。
「え、あっ?わ、ね、眠っていたか?」
気づけば長椅子の隣、がいた。くしゃりと頭を撫でられる。
「お、お前、仕事は」
「終わったが」
「な、ならどうしてすぐ起こさんのだッ」
「よく眠っていたから」
両足は椅子の上にある。つまり完全に横になっていたということで。頭はその―――隣に座る男の、足に預けていたのに違いなかった。
「疲れていたんだろう、気にしなくて良い」
「それは…っ、ではなく、というかそもそも何で隣に」
「今日の分は終わった、後は自由だ。それならルキアの傍の方が良い」
起きたばかりの頭がくらりと回った。慣れない、本当に。
自分が熟した林檎のように顔から耳から、首まで赤くしているのに一方のは腹立たしいほど常と変わらない顔をしている。目の前まで来てすらその変わらなさは、一体、
「………あッ!?」
今日の分は、という言葉を信じれば急ぎのものではないのだろう、机の上に広げてあった書類をまとめるが己の声に振り返る。そう言えば目覚めてすぐその顔が間近になかったか。間近も間近、睫毛が触れ合うほど近くに。
「お―――、お前さっき…!!」
何てことを、と声にならない声でわたわたする自分に、しかしはやっぱり変化のない表情、どころかむしろ呆れたような困ったような顔をして、ひとつ良いか、とおもむろに言った。
「男の傍で無防備に寝るのは良くない」
それを今お前が言うか。
思ったものの、頭に血が上りすぎると人は声の出し方を忘れるらしい。全く今日は、鯉のように口をはくはくとさせるばかり。
「…男、というのには俺自身も勘定に入っているんだが」
「はァッ!?」
「思う女が隣で寝ていて何も出来ない辛さは分からないだろう?」
「な、なァ―――ッ!お前、と、いう奴はッ!!」
「言っておくが至極真面目な話だ。からかっているつもりなどない」
そうだろうそうだろうとも!
真面目だからこそ尚更性質が悪い。或いは真面目にからかっている、の間違いじゃないのか。最早羞恥で死ねる、とばかり目に涙が浮かんでくる。
「さ、さっきしたろうが…ッ」
せめて一矢、と腹立ちまぎれに唸れば、
「ルキアが起きてからだ。寝込みを襲ったりはしていない」
「いけしゃあしゃあと屁理屈をこねるな!起きたからと言ってまだ頭もろくに回っておらん時に!完全に不意打ちだろうが!!」
吼える自分を放ってさっさと帰り支度を済ませるがただただ憎らしい。まるで癇癪を起した子供のような気になってくる。あちらにこそ非があるはずなのに。帰ろう、と戸口で待つでかい図体へ腹立ちにまかせて体当たりを喰らわせるが、元よりその体格差、いとも容易く受け止められてしまった。思い出したように冷たい夜の空気が、熱くなった頬を撫でる。
腹立たしい腹立たしい、こいつのくせにと、頑丈さだけはお墨付きの胸にぐいぐい頭を押し付けてやる。本当に本心で確かに腹立たしい。それなのに浮足立つのは何故か、などとは今更過ぎて自問にすら値しない。くらいの認識は、ある。
厚い掌で酷く優しげに髪を撫でられてしまえば、あっという間に花が咲くような心地にさせられてしまう。我ながらその容易さには恥入るほど悔しい。例えそれがどうにも否定しようのない事実であっても。
「……今なら良いか。ちゃんと起きてるだろう」
何を、と見上げた顔には実に珍しく笑みがあった。
だがまたしても視界いっぱいそれに埋め尽くされた、その意味を確かめる間はなかった。
2011/04/22
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