四月十四日の玉露の君
玄関先から遠く、馴染みの声が聞こえる。だが返事は出来ない。大文良くなったとは言え、まだ大きな声を出すのは辛い。まぁ訪問客は彼女だから大した問題はなかろう、と布団の上に身を起こし羽織をひっかけるにとどめる。
ややあってギシギシと危うい廊下の音と共に近づく気配。部屋の前に腰を下ろして、
「こんにちは、浮竹先生。です」
どうぞ、との返事に襖が開く。これがまたガタガタとよろしくない音を立てるが、まぁ何とか。それでも最初のころと比べれば随分と彼女もコツを掴んでしまっている。来たばかりのときはこうはいかなかった。上手く開かない襖に四苦八苦して、鳴く廊下が抜けやしないかとビクついて。いやはや懐かしい。時の経つの早いものだなどと年寄りくさいことを考えながら視線をあげた浮竹は、自身の担当編集者、の姿に思わず目を瞬いた。
「お加減は如何ですか?」
尋ねる声は普通なのだが。
「あ、ああ…まぁ…」
上手く答えられないのは質問が難しいからなどではなく。
聞いても良いだろうかと思いながらも、先に仕事の話を切り出されては口を挟むこともできなかった。常ならば彼女の真面目な姿勢はおおむね好ましく浮竹の目に映る。勿論今もそう思うが、それ以上に気になる彼女の姿―――服装。
「……では、また来週に伺わせていただいてよろしいですか」
「ああ…その頃には何とか草稿くらいできていると思う」
「ええ、ですがご無理はなさらないでくださいね、本当に」
彼女の表情は本当に心配だと雄弁で、気遣わせてすまないと思うと同時に密かな愉悦を感じる。このやり取りもよくあることなのだが。
兎にも角にも一通り仕事の話を終えて、彼女が二人の間でお約束となっているお土産を差し出した時。とうとう疑問を抑えることが出来なくなった。
「……君……」
「はい」
「…どうして今日はそんなに…黒いんだ?」
本日のは、黒かった。
何がと言うならば全身が。
黒いシャツ。黒いズボン。コートも黒ならばきっと靴も黒なのだろう。そして持参したお菓子は―――コーヒーゼリー。見事なまでの黒尽くしに違和感を覚えないわけがない。外はまさしく春爛漫、桜を始め色鮮やかな花が咲き誇り、道を行く人々もこぞって華やかな装いをしている。
なのに何故。まるで魔女のような黒一色。
浮竹の堪え切れなかった質問に、は顔を伏せる聞いてはいけないことだったのだろうか、いやしかし。
「……罰ゲーム」
ぽつり、が呟いた。
「へ?」
「罰ゲーム、なんです…」
黒い服を着ることが?
疑問符だらけの浮竹に、今日が何の日かご存知ですか、と逆にから尋ねられた。
「今日?四月十四日…何かあったかな…」
記念日だとかに特別疎いわけでもないが、思い当る所はない。
「二月前の今日って、バレンタインデーだったじゃないですか」
「二月前。ああ、そうだが」
「一月前の今日は、」
「ホワイトデーだな」
だとすれば今月も似たような恋愛イベントの日なのだろうか。
「四月十四日は…ブラックデーなんですよ……」
「ブラックデー?」
黒い日。黒を身につける日なのか。
初耳だという浮竹にが語って聞かせたことには。
ブラックデーとはそもそも韓国の記念日。バレンタインデー、ホワイトデーという恋人たちの為の日に対して出来た独り者の為の日で、何でもこの日、決まった恋人のいない者は黒い服を着て黒い物を食すのがお決まりだとか。
「それはまた…自虐的と言うか…」
どんな嫌がらせかと思う。やはり悲しき独り者、浮竹にはとても参加したいとは思えない。大っぴらに日本に持ち込まれていないようで良かったと安心するが、
「じゃあその罰ゲームっていうのは」
「会社の飲みで潰されまして…一人ブラックデー遵守です……」
泣きたいです、上がった声は本当に涙声だった。
「社内の笑い物ですよッ、何でか全員今日のこと知ってるし!皆酷いんです!」
華やかなに色が溢れ始める中たった一人季節感丸無視の黒尽くめ。成程目立たないわけがない。十分に同情に値する、のだが。
「……ッ」
「先生?」
急に難しい顔をして黙り込んだ浮竹を覗きこむ目も黒だと思いついてしまったが最後、とうとう浮竹の我慢の糸は切れた。
「ぶッ、は、ははははは!!!」
の初めて目にする浮竹の馬鹿笑いだった。
思わずのけ反る。
普段から温厚で笑みを絶やさない人ではあるけれど、こんな爆笑など、見たことがない。想像もつかないほどの。
最初はただ驚きに呆然とするばかりだったが、徐々に怒りがふつふつ湧いてくるのをは感じていた。この爆笑のネタは他でもない我が身の不幸であるから。
「先生…いい加減にして下さい…」
我ながらおどろおどろしい声が出た。しかし浮竹の耳には入っていないらしい。或いは聞こえていても関係ないのか、中々治まらない笑いにもう帰ってやろうかと思いだした頃、漸く様子がおかしいことに気付いた。
ただの笑い過ぎではない。いつの間にか激しい咳に変わっている。
「先生!」
すわ発作かと背に手をかけさする。苦しげに見を折りせき込む姿に慌てて薬か救急車かと立ち上がりかけた、その手が握り込まれた。
「先生っ」
「大丈夫…大丈夫、だから」
痛い程の力での手を握り締める浮竹の手には脂汗が浮いている。
大丈夫、とその言葉に偽りはなく徐々に呼吸は落ち着いていたが、その手の力がふと抜けるまでは結構な時間がかかった。
「……お水とお薬です、先生」
枕元にあったそれを手渡す。ちゃんと飲んだのを確認して、横になった浮竹の額にの手が伸びた。
「熱がぶり返しちゃったみたいですね」
このお薬だけで大丈夫ですか、と尋ねようとして己の行動に気付いた。慌てて引っ込める。
「す、すいませんつい」
「いや…構わないよ」
浮竹も一瞬驚いて見せたが、直ぐいつもの笑みを見せる。それどころか、
「もう一度、と頼んでも良いかな」
君の手は冷たくて気持ちが良いから。
は目の前の病人よりも顔を赤くして、しかし病人を無下に扱うわけにもいかず。結局大人しく手を差し出した。
「…うん、やっぱり冷たくて気持ちが良いな」
それは浮竹が発熱しているからに他ならない。
「直ぐ、温くなりますよ」
後で冷やすもの持ってきます、と言いつつも、自分の手の下で気分良さそうにしているのを見ればもう少しと自身も思ってしまう。
「悪いなァ…気を遣わせてしまって」
「いいえ、そんなことありません」
元ネタを持ってきたのはであるし。自業自得、とは流石に言えない。他の多数と同じく、もまた弱った相手には無条件で労わろうと思ってしまう人間の一人だった。
病院に行かなくても良いのかと尋ねるが、浮竹は大丈夫としか返さない。確かに呼吸は元通りになったし薬が効いてきたのか少し眠たそうにも見えた。
「…少し痩せられたんじゃないですか?」
気の所為で済めば良かったが、手の下でその眉が寄ったのが分かる。図星だったのだろう、寝込んでまともな食事をとっていないに違いない。
「…ひと眠りして起きたら、お粥くらい食べて下さいね」
梅干入りのやつ作りますから。
眠りに落ち掛けていた筈の浮竹が、またの手を取った。やはり熱いが、存外強い力だった。
「起きるまで、いてくれるのか?」
「…いさせていただきますよ、心配ですし」
寝込んだ浮竹に食事を作ったことは今までも何度かある。だから何もそんな、真剣な目で見られることでは。
「君が傍にいてくれるなら、ずっと寝込んでおこうか」
「不謹慎です先生」
きろりと睨んだが浮竹の表情は変わらない。笑みは浮かんだが、やはりいつもより真剣だった。
「寝込まなくても来ますよ。先生が原稿書いて下されば」
「原稿がなければ、来ないかな」
「ご機嫌伺いにも、参ります、よ」
「お茶を、一緒に飲んで欲しいんだが」
「それは…勿論」
どうしてこんな事を急に言い出すのか、には分からなかった。
「これからも?」
「…はい、これからも」
熱で弱っているとか、浮かされているとかばかり思いきれないのはその眼差しが真剣そのものだから。の手を握る力がとても強いから。
「眠って起きて、その時君に、傍にいて欲しいんだが」
今日だけでなくずっと。
そう言った顔に笑みはもう全くなかった。握った手が熱い。浮竹のものとのものと、どちらがどちらのものだとか、分からない。
顔と言わず首まで真っ赤にしては浮竹を見つめ返していたが、徐々にその目がとろりとし始める。握られた手からも力が抜けていくのが分かって、は慌てて布団をかけ直した。
「ね、寝て下さい、先生!」
「いや、まだ」
「駄目ですって、寝ないとッ」
「しかし…」
「いますから、ずっと!!」
眠気で半分以上下がっていた瞼が一瞬持ち上がり、だがまたすぐ落ちた。の好ましく思う、大きな弧の形を描いて。
「…起きたらもう一度、聞かせてくれよ」
はい、とまさしく蚊の鳴くようなの声は、目を閉じた浮竹に果たして聞こえたかどうか。
本当の本当の本当に本当なのだろうか、遅れてやってきた四月馬鹿じゃなかろうか、やっぱり早く起きて下さい先生、もう一度聞きたいのは私です!
ぎゅう、と握った手に、眠っているはずなのに応えた力に、再び急上昇した熱は当分治まりそうにない。
とりあえず、来年の四月十四日は黒い服を着ないで良いだろうか、のとっておき癒しスポットは終の住処になるのだろうか。
2011/04/14
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