りぃりり、と呑気な鳥の声が耳に届く。
花が、今が盛りと咲き誇る木蓮の下を通り抜け、飛び石を辿った先、小さな離れ。
小さな、と言えどその普請は見事。骨組みから庭の細部に至るまで、完璧な造り。その計算され尽くした家と庭の境目、縁側に小さな背中の主の姿があった。
「」
パチンと何かを断つ音がして、主が振り向いた。
「これは、白哉様」
名を呼ばれた男は驚いて、それから目尻に皺を寄せて柔和に笑んでみせた。手には蕾と花が半々の枝。
「気づきませんで…失礼致しました」
「良い、続けてくれ」
「…後ほんの少しですので」
お言葉に甘えて、とは再びパチンパチンと細かに枝を落としていく。その傍らに腰を下ろして待ったが後少しとの言葉は正しく、幾らも経たぬうちに竹寸胴に枝が整えられた。
「木瓜か」
「はい、まだ少し早くはありますが」
出来栄えを満足そうに眺め、落とした枝を手早く紙に包んでいく。失礼を、とそれらを手にして下がり、戻ってきた時には代わりに盆があった。茶と菓子と、手早い事だと感心する視線の先で、白い手がゆっくり茶を注ぐ。
「最近の具合は」
「おかげ様で、良うございます」
答える顔色は確かに悪くない。
「時節もちょうど良い。寝ているばかりは勿体ないと身体も思うようで」
言って笑みを庭先に向ける。麗らかな春の日差しの下、長い冬の眠りから目覚めた緑が輝き始めているのが白哉にも分かった。
「白哉様も、お変わりございませんか」
春は進退の季節。朽木の家でも護廷六番隊でも古参が去ったり新しい顔が入ってきたり、細かな変化はあったが、
「…概ね、変わらぬ」
沢山を省略した返答に、しかし目の前の男は満足そうに微笑み頷く。鬢に混じる白いものが男の持つ穏やかな空気を一層強調するようだった。
「何よりでございます」
病弱で一年の半分以上寝て過ごすという具合は十三番隊隊長の浮竹とも大いに重なるが、あちらはそれでもれっきとした護廷の一隊長、火急の事態にあれば他に先立ち刀を振るう力もあるが、は違う。生まれも同じく貴族の長子だが貴族の責務は果たせぬと早々、白哉の生まれるより昔に、当主の座を弟に譲って隠居している。
瀞霊廷の住人故の長い命は持つが、いつ何時をも知れぬ日々にあって、は殊更『変わらぬこと』を有難がる。
「―――…なれど、」
視線を再び白哉に戻し、ぽそりと小声でが呟いた。
目が、いつもはありふれた黒の瞳が、金色を閃かせている。
「どうにも、嵐が」
“降りて”きている。
それはいつも前触れなく唐突で、白哉はいっかな慣れない。射ぬかんほどの強い強い眼差し。
「嵐」
「強い……荒々しい、悲しい風が」
「私の周りにか」
「白哉様の…いえ、他にも。誰も、彼も、呑まれて……」
きゅう、と柔らかに弧を描いていた眉が寄せられる。
「緋真様」
「緋真…?」
「いや違う、あの方ではない」
「違うならば何者だ。それはどこにいる」
「嵐の真中近く―――」
ますます眉間の皺が濃くなり、白哉が思わず腰を浮かしかけた。
と、その時。池に落とした色水の滴が一瞬で拡散するように、の瞳に閃いていた金の光が消え失せた。
ぱちりと瞬きを一つ。瞼の下から現れたのは元の通りの黒だった。
「………また何ぞ、口走っておりましたか」
浮かぶ苦笑もいつもの、病弱な男のもの。肯定を返し、浮かせた腰を再び落ち着かせる。嘆息が漏れて、知らず緊張していたとようやく自覚した。
「…良きことでは、ないご様子で」
は、自身の漏らす言葉を知らない。
時折思い出したように現れる金の光。ほんの一時、神がかったように漠然と未来のことを語るそれは、の意識下で操れるものではなかった。
「申し訳ございません」
「謝ることではない」
「いえ…せっかく足をお運びくださったところに、とんだ無調法を」
花も茶も台無しだと、骨と皮ばかり目立つ手が両目を覆った。
「役立ちもしない、つまらぬ芸で」
確かに語る未来は近かったり遠かったりで定まらず、内容もあいまいな表現が多く判断し難い。
自身、己の奇異を好いてはいないようだった。諦めた、とは聞いたことがあるが。
「謝ることではない。何度も言った筈だ」
「しかし、いつもこれは、不吉ばかり好んで読む」
先程も然り。
「人の心を弄ぶ目など、悪趣味の極みではございませんか」
「」
手を下ろせ。
言ったが動きはなかった。
「日に二度ないとは言い切れませんので」
そんな事は聞いたことがなかったが。
病弱で今までもほとんど限られた者ばかりとした接してこなかった貴族の男は、しかし存外頑なで白哉より遥かに年を経た老獪さも持ち合わせている。
「構わぬ」
「いえ、私が」
「不吉ばかりではない。私に限って言えば」
吉兆もあったとの言葉に、漸く、それでも未練気にゆっくりと手が下りた。視線はまだ自身の手元に落とされている。
「あれは…」
「吉兆であった。兄の言葉に間違いはない」
時を遡れば百年ほども昔。まだ死神でもなかった白哉は何度目かの邂逅で、そのころは確かな交流はなかった、初めて金の光をの瞳の中に見た。
「ただただ弱く、しかし心ふるわす光をもつ者と出会い、手を取ると」
小さな黒髪の乙女。流魂で揺れる魂。
「兄の言葉は、真実だった」
出会って確かに、白哉の心は震えた。儚く揺れる緋真の魂に、一筋の光を見もした。
周囲の反対を押し切り妻と迎え入れたことに批判は強く、中にはの言葉が惑わしたのだと言う輩までいたが。
「……吉兆でも真実でも、先のことなど只人が口にして良い事ではありますまい」
「一時の兄は只人ではない。なれば問題もなかろう」
普段にない白哉の物言いに少し驚き、それからまたは困ったような笑みを浮かべた。優しく、ただ優しく見守るだけの笑み。
「…長居をしたな」
いいえ、と首を振るの、しかしその顔に初め見た生気はない。
“降ろした”後はいつも倦怠感が伴うと知っていたのに長居をした己を白哉は苦く思う。自分でも気づかぬうち、やはり不穏な言葉に惑わされていたか。
「良く休むが良い」
「ありがたく…」
「また、来る」
その言葉に、見送るの顔は笑んでいた。
病弱で満足に外を歩くこともままならない。
先を読む双眸は時に不吉と敬遠され、時に無意味に神格化され、だが柔らかさを失わぬ男を厭う理由は、白哉にはない。亡き妻のことはきっかけではあるが、その出会いも別れもの関わることではない。短い夫妻の時間、流魂街の出である彼女に特に親しく接してくれていたことだけ、恩と言えば恩かもしれないが。
久方ぶりに耳にし、口にした妻の名に、白哉の胸中はざわついていた。更に告げられた不吉の色濃い未来の言葉。嵐の真中近くにいるというその者はもしや。
関係ない、と白哉は頭を振って懸念にフタをした。の言葉はただの言葉、捕らわれるものではない。何があっても己は誓いを守るのみ。
白哉の前には真っ直ぐの道が伸びるのみだった。
2011/04/04
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