三月十四日の、玉露の君
風に春の香りが混じり始めた今日この頃。いつものように訪れた浮竹宅はやはり古色蒼然としていた。
周囲がほんの少し春めいてきたからか、一層古びた様子が浮あがっている。だが居心地は抜群のその一室で、家主で作家、浮竹十四郎の担当編集者、は手渡されたものに目を瞬かせた。
見慣れた茶封筒。これにはきっと予定通り書きあげられた原稿が入っている。問題なのはもうひとつ、白い紙袋。
はいこれ、と茶封筒と共に手渡され受け取ってから、はてと首をかしげた。
「あのぅ、浮竹先生」
「うん?」
「これは原稿、ですよね」
「ああ、今回の分だよ」
「じゃあこちらは」
「お返し、のつもりなんだが」
「お返し?」
「一月前の」
今日はホワイトデーだろう?
そこまで言われて頷きかけたが、まだ疑問が残る。
今現在進行形で、特定のお相手のいないにとっては、クリスマスも年末年始も、世間のほとんどのイベントが単なる年中行事でしかない。普段と違った美味しいものを食す、という意味の。本来愛を獲得したり確かめ合ったりするバレンタインデーに於いては、ただのチョコレート記念日、若しくは社内における人間関係を円滑にすべく甘い袖の下を配る日と成り下がっている。の中では。
勿論社内の人間だけではなく担当する作家先生にも配って歩いた。浮竹を含め。
しかしブツが、同僚たちでや他の担当作家たちは等しく同じものだったのに対し、実は浮竹の分だけ手作りチョコレートケーキで特別だった。が、それは自分も食べる、という事情があったりする故。
何しろこの築百年超の浮竹宅はの貴重な癒しスポット。ここ数年の孤独を思い知らされる日には格好の逃避場所となった。男連中に手渡す度、礼と共に付け足される「本命は?」という余計な一言で微妙に荒んだ胸中を慰めるべく、その日は殊更手間をかけて焼いたケーキととっときの紅茶を持ち込んだのだった。どちらかと言えば和菓子派の浮竹にはしつこい甘さだったかと、憂さ晴らしの逃避場所代わりにしたのと合わせてすまなく思いはしたが。
だから今日のホワイトデー(にとってはただ甘いものを食以下略)に持参したのはあっさりめの和菓子。それをやはり一緒にいただいて、今年のお菓子祭りも終了したはずが。
「ホワイトデーは、男性から女性にバレンタインデーのお返しをする日じゃないか」
「でも、今日もお茶を」
「食べたのは君のお土産だろう」
「や、はぁ。そうなんですが…」
今まで担当作家たちからお返しを貰ったことほとんどない。それが特殊なのかは判断し難いが、少なくともにとっては何もないのが当たり前。そもそも義理も義理で配っているのだからと、期待すらしたことがなかった。張り切った手作りなんか持って来たものだから、浮竹も気を遣ったのだろう。これは失敗だと、白い紙袋を手には一月前の己の行動を悔いた。
「…もしかして、迷惑、だったか?」
口をつぐんだの様子に気づいて浮竹が少し沈んだ声で尋ねる。慌てて顔をあげては手を振った。
「や!違いますとんでもないです、迷惑とかそんな事はなく!全く!!」
その慌てぶりが返って怪しいと自覚していたが、やはり浮竹の表情は晴れず。
「もし、あー…誤解だとか、されそうなら置いて行ってくれても」
「お、置いて行くなんてそんな!!……ん?」
誤解?
「…えーっと、先生。誤解って……」
「いやその…今日はそういう日だしなァ」
思わず生温い視線になったを咎める者は、幸か不幸かその場にはいなかった。
「先生って…案外容赦ないんですね…」
「容赦?」
「誤解されて困る人がいたら手作り持参なんてしませんよ…」
「……いないのかい?」
「言わせようとするところがまた容赦ないですね!」
癒しいずこ!!
くっと目頭を押さえたに浮竹は少し驚いたようだが次の瞬間、そうか!いないのか!と朗らかに、それはもう春の日差しのように陽気に言い放ち、更にの気分を滅入らせた。思わず社会人女性の伝家の宝刀『セクハラですよ』を抜きかけるほどの滅入りようだったが何とか堪える。まぁ、貴重な癒しスポットにも、たまには雨は降ろう。
「じゃあそれは…持って帰って貰えるか?」
何故だか急に明るくなった浮竹が白い紙袋を示す様子には、それでも少しばかりの不安が透けて見える。そんな顔をされて断れるはずもなく。
「……では、お言葉に甘えて…いただきます」
毒気を抜かれては頭を下げた。どちらにせよ返すなんてことはとてもできない。正直に言えば浮竹の選んだのがどんなものか興味もあるし、勿論純粋に嬉しくもあった。例え単なる義理でも。
「ありがとうございます、浮竹先生」
ニコニコとほほ笑む浮竹はやはり、にとっての大切な癒しには違いない。
「どうだろうな。君のものと比べてはとても及ばないだろうが」
ちょっと自信作なんだ。
秘密をばらすような小声に、または目を瞬いた。
「自信作…って…、先生、もしかしてこれ」
「手作りだよ、俺の」
、本日最大の驚愕。
いきなり白い紙袋が倍ほどの重さになった気がした。
「せ…ッ、先生、お菓子作り、なさるんですか!?」
「やってみたんだ。君のケーキにちょっと感動してな」
案外楽しいものだなぁと少し得意そうな、または悪戯が成功した子供のような顔で言われてもはただ口をぽかんと阿呆のように開けるしかできない。
それをどう受け取ったか、毒見はしたから味は大丈夫だとつけ加えられた。
―――食べてみたら、是非感想を聞かせてくれ!!
半ば放心したまま玄関で見送られて後、その言葉を思い出しながらが白い紙袋に立ち向かう覚悟を決めたのは帰宅してお風呂も食事も済ませてから漸くのことだった。丸いローテーブルのど真ん中に鎮座ましますそれは異様なまでの存在感を放っている。
浮竹十四朗の、手作りお菓子。
とんでもないものをもらってしまった、と頭を抱えるが、何時までもそうしているわけにはいかない。感想を聞かせてくれとも言われたし、食べないという選択肢はない。
そろそろと、紙袋に手を伸ばし中身を取り出す。噛みつかれないとは分かっていても何だか空恐ろしい。
出てきたのはまた、小さな白い箱。水色のリボンがかかっている。チョウチョ結びが少し歪んでいて、それもまた浮竹てづから結んだのだと分かり驚く―――と同時に、おなかの奥がホットミルクを飲んだ時のようにじんわりと暖かくなる。
やっぱり随分気を遣わせてしまったとは今も思うが、男の人から手作りのものを貰うなんて考えてみれば初めてのこと。それもただ仕事の付き合いしかない人間の為にわざわざ。感動に涙さえ滲む。
ぐずっと鼻を鳴らしながらリボンを解いて、箱の中にはごくごくシンプルな、材料から作り方まで全部分かりそうなクッキーが、やはり少し歪な形をして五枚、並んでいた。ラップでくるんで置いてあるだけ、と言うのがまた浮竹らしい気がして笑みがこぼれる。リボンがあっただけきっと上出来なのだろうとは少し見くびり過ぎだろうか。
用意したお茶など必要ないくらいあったかな気持ちで一枚つまむ。
「いただき、ます」
やっぱり癒し。これに勝るものなどない。
微かな甘い香り。
口中に、甘いクッキーの。
「…むっ、ぎ!?」
クッキーの、
「ぐっ、か…、固ァ!!」
岩のような、塊。
「な、なぁ―――何コレ?」
とても口の中で割ることが出来ず、かじりかけのまま出してしまったが仕方がない。歯が欠けるかと思うほどの固さ。
奥歯でも文字通りはが立たず、手で割ろうとしても敵わない。この一枚がたまたまそうなのかと思いきや、他も全てとんでもない頑強さでの手も歯もはねのけた。
「これ……材料混ぜすぎ、とか…?」
初めてクッキーを作った時によくやる失敗。きっと『さっくり混ぜる』の加減が分からず力任せに混ぜたに違いない。にも覚えがあるが、流石にここまでではなかった。絶対。
しかし自信作と言わなかったか、浮竹は。
あの笑顔は嘘や冗談などではない。だとすれば浮竹は本気でこれを良い出来と思っている。毒見はしたと言うからには食べたのだろうし。しかしこの、尋常ではない固さ。
どんだけ歯茎丈夫なの。
考えた途端、この岩のように固い手作りクッキーを、まるで煎餅のようにバリバリと大真面目で噛み砕く浮竹が思い浮かんで(しかも何故かフリルのエプロン付きだったりする)、次の瞬間は盛大に噴き出した。
「ふ、は…っ、く、苦しぃ……!!」
カーペットの上にごろごろ転がって、大の大人が。
どんなに面白いお笑いを見たってここまで笑うなんてめったいないだろうくらい笑って、ようやくおさまった時には腹筋が引きつけを起こしそうになっていた。
「はぁー…笑った…」
明日筋肉痛になりそう、とお腹を押さえながら起き上ったの視界に、あの岩クッキーが再び映る。また噴き出しそうになるのをこらえながら、さてさてどうしたものかと考えて。
結局紅茶に浸し何とか崩れてくれるほどふやかしてだが、こちらは浮竹の「大丈夫」の言葉通り。柔らかくなったクッキーは確かに美味しかった。ちびちびとふやかしては食べるを繰り返して、五枚全部をその場で片付けてしまうくらいには。
「…ごちそう、さまでした」
予想外のクッキーと予想外の笑いを。
簡単に片づけをして、はいそいそと手帳を取り出し予定を確認し始める。次、浮竹の元を訪ねるのはほんの数日後。それまでに上手い批評を考えておかねばならない。正直に言うべきかしばし放置を決め込むか。新たな犠牲者が出るのを待つのも楽しそうだが。
どちらにせよ難しいところだから真剣に考えようとするのだが、脳裏に浮かぶフリルエプロンの浮竹がことごとく邪魔をするからどうにもまとまらない。諦めて早々に休むことにした、その夢の中にまで出張ってくるのには流石に閉口したのだった。
2011/03/14
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