趣がある。
 歴史がある。
 わびさび、幽玄。
 聞こえの良い言葉で濁すことはいくらでもできようが。
 開けるのに妙なコツがいる戸だとか、鴬張りも斯くやと鳴く廊下だとか、隙間風ぴーぷーの立てつけだとか、要するにかなりボロい純和風の屋敷は今日も今日とて変わらぬ佇まいでを迎えた。

「先生ー。浮竹先生、こんにちわー。ですー」

 これも揃って年代物の呼び鈴があるにはあるがかなり昔に壊れたまま放置されている。例え正常に作動していてもあまり用を為さないそれを端から無視して、声をかけるやクセのある戸をあっさり引いて玄関に入った。一応待ってみるが何の反応もない。
 これはどっちだろう。お仕事中かお休み中か。
 今日は後者、と根拠もなしに当たりをつけて、靴を脱いで上がり込む。

「お邪魔しまーす」

 形だけでも断りを入れ、少し埃っぽい廊下を行く。玄関からいくつか部屋を過ぎ、まだ閑散とした中庭を横目にもう少し、ろくに雨戸の開いていない暗い一間を抜けて漸く目的の早にたどり着く。毎度のことながらまァ見事と思わずにはいられない。古い上にこの家は広すぎる。広すぎて近くならいざ知らず、今のいる場所まで到底玄関の呼び鈴の音は届かないし声だって同じ。家の主は特別耳が遠いわけではないけれど、集中しているときは聴覚封印の術中にあるし。
 さて本日の家主は如何に。

「先生、こんにちわ。です」

 襖の前から声をかける。ややあってどうぞ、の返事と衣擦れの音。
 やっぱり滑らかとはいかない襖を何とか滑らせた先には家主が布団の上に身を起こしていた。ビンゴ。

「やぁ、君」

 浮竹十四朗。このボロ、もとい、趣深い屋敷の主であり、の担当する作家先生の一人だった。

「起こしてしまいましたか、すいません」

 頭を下げながらもあっさり近くに座れば、いいや、と柔和な笑顔が返ってくる。
 この人はいつ来ても、笑顔。担当になってもう随分経つけれど、声を荒げるどころか不機嫌なところさえ、は見たことがない。

「お体の調子は如何ですか」
「うん。今日は良いな」

 確かに顔色は悪くない。
 生来病弱であるらしく、が訪れた時に仕事をしているのと寝込んでいるのと確率は五分五分。調子が悪い時は本当に今にも、と思う程の浮竹の体質のことは編集部でも有名だった。

「それで、進行具合はどんな模様でしょうか?」
「まぁまぁだ。季刊の分は二、三日中に渡せると思うよ」
「ありがとうございます。もう一件の方は」
「うーん…」

 ハハハ、と困り顔で頭をかく浮竹にやれやれとため息だけついてみせる。要するに進んでいないということだが、まぁまだ時間に余裕はある。今からせっついて直前に倒れられても困るし。

「分かりました。では季刊の分はまた二、三日後に伺わせていただきますので、その時に」

 現在の所に浮竹が抱えている仕事は二本。季刊の文芸雑誌の連載と子供向けの冒険小説。どちらもそれなりに人気が高い。有名な賞もいくつか受賞して、物書きとしては成功者に分類されるだろうに、如何せんその仕事ぶりは体調に大きく左右される。つまりは利も大きいがこちらの手間も多いにかかる先生なので、最初に担当を言い渡された時は正直「えー…」と思った。担当しているのは浮竹一人ではない。ただでさえ忙しいのにそんな、面倒くさい。
 けれど今は。

「では」

 堅苦しい仕事の話はおしまい、とばかりに軽い声でが持参した袋をごそごそやりだす。同時に浮竹もその眼を輝かせた。

「本日のおみやは…」
「おはぎかァ!」

 いやぁ嬉しいな、と浮竹は満面の笑みを浮かべた。結構な甘党の浮竹を訪ねる際、はいつも何か甘味の差し入れを持参する。陣中見舞いは珍しくもなんともないが、やはり喜ばれるとその甲斐もあると言うモノ。

「今召し上がりますか?」
「ああ、いただこう」
「じゃあ用意してきますね」

 お茶を、と向かう先はお勝手。まさしく勝手知ったるで茶を入れ皿を出し二人分を盆に載せ再び部屋へと戻る。
 何度目かの差し入れの際、一人で食べるのも寂しいからとお相伴にあずかり、以来ご一緒するのがお約束となっていて。そうなれば選ぶのにも力が入る。もしかしてこれが狙いだったのかなとも思うがまあ良い。甘党なのはも同じだった。

「あれっ、先生。起きても大丈夫なんですか」

 盆を手に戻ると、ちょうど浮竹が部屋から出てきた。屋敷の趣向に合わせてか単なる好みか、はたまた形を大事にするタイプなのか。大体いつも和服の作家先生は上から羽織をひっかけている。

「もう起きようと思ってたんだ。それに今日は天気も良いから、縁側へ出よう」
「あ、良いですねェ」

 心なしか明るい浮竹の後について先ほど見た中庭を前に、腰を下ろす。冬にしては力ある日差しがちょうど良く空気を暖めてくれている。

「どうぞ、先生」
「や、ありがとう」

 玉露の芳しい香りが鼻腔をくすぐる。浮竹の好きなお茶は、時折お使いも頼まれるからその値段まで良く知っているが、にとってはなかなか手の出せない贅沢品。自分じゃ変えないのに舌が肥えるのは問題だなァと思いながらもありがたく頂けば。一口でもう普段と全く違うと分かるそれに思わず顔が綻んでしまう。目の前の浮竹も、あんこを頬張り同じ表情。

「美味いなァ」
「良かった。近所の新しいお店なんですが評判で」
「やっぱりおはぎは粒あんに限る」
「ですよねぇ。おはぎは粒あんでないと!」
君もか、そりゃ嬉しい」
「ええ。こしあんか粒あんかって多少の好みはありますけど、そう簡単な問題じゃないんです。ものによるんです」
「同感だ。粒あんには粒あんの良さがある」
「私がおはぎに求めるものは素朴さです。素朴さは粒あんでこそなんですッ」
「然り然り」

 面白そうに笑う浮竹を前にして、楽しいなァと手にした湯呑と同じ温度に胸が温まっていくのが分かる。

「…もう、梅も満開ですね」
「そうなのか。ここの所外に出てなかったから、知らなかったが」
「このお庭には梅はありませんしね」
「いつの間にか、ちゃんと春になってきてるんだなァ」
「ですねェ」
「…桜が咲いたら、そこの河川敷へ花見に行こうか」
「良いですねェ。お弁当作りますよ、私」
「そりゃあいい。ちなみにおにぎりの具は」
「シャケとタラコと梅干です」
「おかかは駄目かな」
「駄目じゃないですがシーチキンマヨネーズは断固認められませんッ」
「そこは勿論。卵焼きは甘いのが好きなんだが」
「あー、だし巻き派ですスイマセン」
「リンゴを兎にしてくれるなら譲歩しよう」
「先生が食べて下さるなら兎リンゴでもタコさんウインナーでも作りますとも」
「そいつは楽しみだなァ」

 同時に湯呑を傾けて、目を合わせてにんまりと目を弧にする。
 ああ楽しい。

 ストレスいっぱいのこの、現代社会。企業戦士が日々受けるダメージはそう軽くない。かみ合わない上司、無責任なアルバイト、個性が飯の種の作家先生たち、融通の利かない印刷業者、エトセトラエトセトラ。
 浮竹の近くは、多分古めかしい風体の家も相まって、周りから取り残されたように時間がとてもゆっくり流れている。木の香りに包まれて大好きな甘いものを食べて、高校生に戻ったような他愛ない話に付き合ってもらっちゃって。あーこれ何てスピリチュアル?ちょっと違う?てか古い?

「……もう会社、戻りたくないなァ」

 ついついこぼしてしまった愚痴にも、浮竹は何も言わないでいてくれる。その許容は冬の朝の布団のように抜け出し難い。
 けれど朝が来たら、人は起きださなければならない。

「……なんて、言ってちゃ駄目ですけどね」

 一口分だけ残った茶を飲み干して、ごちそうさまでしたと手を合わせる。良く出来ましたとばかり、こんな時はイイ年相応の眼差しがを見つめていた。

「それじゃもう戻りますが、何か御用時ありますか?」

 後を片付けて尋ねるが今のところ特に、との返事。さらには遠慮するをまぁまぁと押し切って玄関先まで見送りに来る始末。つくづく偉ぶらないというからしからぬというか。

「では浮竹先生、また二、三日後に…」
「ああ、待ってるよ」

 お日様みたいな笑顔で送り出されて、充電完了。これでまた頑張れる。二、三日したらまた来れるし、ああ今度のお土産は何にしよう?
 都会のコンクリートジャングルで見つけたとんだ癒しスポットは、今のところ誰にも秘密だ。帰社までの道のりは、朝よりはずっと暖かくて明るい。


「うーん…、あともう少し、かな」

 浮竹先生の春もまた、近いかもしれない。

2011/03/04







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